今回は「連想」について解説します。
「連想」という言葉に似た単語では「感想」という単語があります。
「感想」は端的に五感で認識した物・人・出来事・概念に対して、感情として発せられる言葉です。
例えば・・・
マリンブルーの穏やかな海に沈む真っ赤に染まった夕日を観れば、「美しい」「素晴らしい」「感動的だ!」「生きた意味を感じる」・・
と誰もが、観た咄嗟に出てくる言葉です。
「感想」は思考を伴いません。まさに反射的に出てくる「単語」と謂えます。
「連想」はやはり五感で認識した物・人・出来事・概念に対して、個々の経験や知識が加味されて、まったく新たな「言葉」に変換されます。
例えば、先ほどの「マリンブルーの穏やかな海に沈む真っ赤に染まった夕日」を観た(五感で言う視覚)場合、
「学生時代ラグビーに掛けた青春の1ページ」
「真っ赤な夕日が染まる青い海のコントラスト」
「昔観た懐かしのドラマ水谷豊主演の”熱中時代”」
「牧原敬之の”君は誰とあくびをしますか”という曲」
「夕日に向かって俺は男だ!と叫ぶ高校生」
・・・・。
という具合に、幾らでも浮かんできます。
もう一つ。
「犬」という単語を観た時、どのような連想をするでしょうか?
「動揺”犬のおまわりさん”の困った犬の表情」
「昔飼っていたマルチーズのコロ」
「日本一強い闘犬の代表である土佐犬」
「渋谷のハチ公」
「また足を噛まれるのではないか、という恐怖心」
「犬猿の仲。」
「犬と同じように変われている猫」
このように「認識」は出来事・人物・物だけで無く、「ことば」「単語」でも連想は浮かびます。
その連想言語には、明らかに個人差があります。
経験・知識・固定観念によって、様々に変化するわけです。
そこで皆さんは「連想法タロットリーディング法」で、ドローカードを連想した場合、個々によって、
全く違う連想言語が出てくるのだから、タロットリーディングは不可能では?と思う事でしょう。
その回答は次章に廻すとして・・・
少しだけヒントを説明します。
例えば・・「犬」という「単語」から、「動揺”犬のおまわりさん”の困った犬の表情」と連想した。
この段階ではタロットリーディングは不可能です。
なぜなら「一次連想」に過ぎないからです。
一次連想とは、最初に思いついた言葉ですね。
連想ゲームをやったことがあるでしょう。
最初の人の連想と、10人目の人の連想は、全く異なる言葉になりませんか?
私なら・・・
「犬のおまわりさん」から、次の連想言語が生まれてきます。
このとき重要なのは、質問思考です。
「犬のおまわりさん」とは「どういう状態のことを謂うのか?」と自問自答します。
確か・・・
「政府の犬」
「警察」
「犯罪を取り締まり起訴に持ち込む証拠を集める職業」
と謂えますよね。
これが第二次連想です。
「犬」という最初の単語から「警察」に変化したのです。
どう考えても、「犬」と「警察」は違う「単語」です。
その警察が困った表情をしている。それは迷子の子猫が居て、名前も住所もわからないからだ。
このときに、私の頭の中では、リアルな映像が浮かんでいます。
「道ばたで出逢った迷子の素性も名前も住所もわからない。これでは親御さんを探せない。さあ、どうしたものか?と思案に繰れて呆然と突っ立て居る巡査が、顔を横にして腕を組んで困っている」
これは、私の頭に浮かんだ映像をそのまま「文章」に変えただけです。
その「文章」をさらに発展してみます。人生の生き方というテーマがあって、それに対しての文面です。
「いつでも、どこでも、困っている人が大勢居る。特に幼い子供が両親と離れて泣いている姿は可哀想なものだ。それでもおまわりさんは、何とかして両親を探し出して幼い子供も両親も安心させてあげたい。否、おもわりさんに限らず、成熟した正しい心を持つ者ならば、誰しもこのように思うだろう。困っている人を助ける心。なんとかしてあげたいという想い。この想いこそが、人間が人間として生きる上で最も美しい愛に近いのでは無いだろうか?愛は他人のことを、まさに自分のことのように想い、自分の事のように行動してあげることだ。ある人は親切とも語るだろう。ある人は仁と呼ぶだろう。もっと謂えば、困っている人を助けてあげることを、自ら進んで行うことが人間関係を素晴らしいものにし、自分の人生をより幸せに高めることではないだろうか!皆も会社で困っている人が居たら助けてあげること。誰かが間違ったならば、それを追い詰めるのでは無く、自分も相手と同じように考えて赦し、助けてあげること。この行いが自分を豊かにするのだ。」
如何でしょうか?
まるでタロットリーディングではありませんか?
最初は「犬」から始まったんですよ。
つまり「犬の絵のタロット」(仮に犬のタロットがあったとしてです)を読んだことになるわけです。
連想にはもう一つ重大な心理学的根拠があります。
ユングが提唱した「元型」「集団的無意識」と呼ばれる概念ですね。
それは中世の絵画の図像学(アトリビュート)にも関係します。
「元型」を解説します。
例えば・・ここに「骸骨」の写真があったとします。それを観たとき、どのような感じ方をするでしょう?
「先が無い」「将来は無い」「ひからびている」「堅い」「死」「過去の遺物」「滅びる」・・・
というような概念が浮かぶはずです。
またここに「笑っている赤ちゃん」の写真があったとします。
「可愛い」「将来は有望」「やわらかい」「抱きしめたい」「命の息吹」「誕生」・・・
というような概念が浮かぶはずです。
そしてこの概念は、過去から現在に至る世界中の人間が同様に感じるのです。
つまり、「赤ちゃん」の写真から、誰も皆が、同じ連想をするということです。
これは人間の本能に相関関係があります。
「元型」は意識できないものです。むしろ潜在意識・無意識の領域です。
しかし、世界中の誰もが同じ「ことば」を発するのです。
「連想」には二通りあり、特定の絵・単語から、個々の経験・知識から導き出させる「独自のことば」と、
世界中の誰もが無意識の領域で出される「共通認識のことば」があるということです。
これを応用したのが、図像学(アトリビュート)ですね。
中世では、作家・画家独自の美を追究することよりも、世間的な公の概念を描くことのほうが重要だったからです。
当然ですが、キリスト教の影響は絶大です。
仮にイエス・キリストを描くときに、逆五芒星を一緒に描いたなら、その画家は異端とされ、中世社会から断絶されます。
最悪は火あぶりとなるでしょう。
アトリビュートでは「白い犬」は「忠誠」「誠実」を顕します。
タロットにも「愚者」「ペンタクル10」で出てきますね。
これは原始時代からの人類の記憶に関係します。
犬は原始時代から飼われていたことは、歴史的事実です。
犬は主人を裏切らず、危険を察知し、主人の手伝いもします。(羊飼いでは犬を手伝わせているでしょ)
その深層記憶が、アトリビュートとして顕れてきただけのことです。
魔術師など、「白百合」が描かれています。
他にも「ペンタクル3」「法王」「死神」「ペンタクルエース」など多くのタロットに描かれています。
これはマルセイユ版ではあり得ません。
「白百合」はアトリビュートでは、「聖母マリア」を顕します。
そのことから同時に「母」「女(淑女)」も顕します。
これも太古の記憶から出てきた連想です。
白百合は、「純粋さ」「罪の無さ」「純潔」「処女性」の象徴として昔から謳われてきました。
祖国を救った聖女ジャンヌ・ダルクが身につけることを許されたブルボン王朝の紋章も同じ白百合ですね。
余談ですが、百合(ゆり)とは、女性の同性愛、またはそれに近い友愛のことも指します。
逆に赤い薔薇はゲイですね。薔薇族と謂います。
このような歴史的背景から、先人達の深層記憶に白百合=聖母マリアと刻み込まれたわけです。
結論として「連想法タロットリーディング法」は、個々の経験・知識に左右されようと何ら問題は無いということです。
逆に「絵」そのものに集中して、その絵の語る啓示を考えるのですから、まさにタロットリーディングと謂えるでしょう。